前々回、前回の二回にわたって、「四十九日の意味」についてお話してきました。前々回では、四十九日の期間とは、亡き人を浄土へ送る期間ではなく、娑婆に残った我々が「宙ぶらりん」でなく、きちんと大地に足のついた人間になってゆくための期間だとお話しました。つづく前回では、「宙ぶらりん」の内容について、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の「六道」をグルグル回り、一分一秒として同じ場所にいない私たちの日々の姿についてお話しました。今回「完結編」は、「宙ぶらりん」の私たちが、どうやって「大地に足のついた」人間になって行けるのか?そして七×七=四十九日の期間に込められている「願い」について、お話させていただきます。
お釈迦さんが、生まれてすぐ「七歩」歩いて「天上天下唯我独尊」と語ったと云うお話が伝えられています。いくらお釈迦さんが立派な人物でも、生まれてすぐ歩けるはずも、喋れるはずもありません。しかしながら、現代に至る今日まで、このような説話が脈々と語り継がれていると云う事実は、その説話の中にいくつもの仏教的な「教え」が込められているからに他なりません。その中の一つに、私たちが大地に足をつけるためのヒントが隠されています。
実は「七歩」歩いた。その事が重要なのです。つまり、私たちが日々グルグル回っている「六道」から、どうぞ「一歩」出てください。そして、「七歩目の世界」に居てくださいと云う事なのです。五歩では足りない、八歩あるくほど頑張れない、だからほんの一歩踏み出して欲しいと云う願いなのです。では、この「七歩目」とはどんな世界なのでしょうか?それは、「反省出来る」と云う世界です。自分が今「六道」の何処に居るのかが自覚出来ると云う事です。「今私が、あの人に投げかけた言葉は修羅の心であった。いかんいかん!」と「自覚」し「反省」できる。私たち人間は、「六道の心」を消し去る事はできません。と云うより、この「六道の心」があるから人間なのです。ですから、せめてほんの一歩、反省出来る心の世界に足を踏み出さなければならないのです。反省し、また六道に戻り、また反省し六道に戻る。その繰り返しの日々が、人として最も尊い生き方だとそう説かれています。
「懺悔亡き者は人に非ず」と云う厳しい言葉があります。懺悔とは、「泣いて悔やむ」と云う意味です。悩み苦しみ悔やむ事なしに「ひと」は、優しさや思いやりや、まして人生の深さを感じ得ないと云うのです。
私たちは絶えず「幸せ」を求め「辛い」を避けて生きて行こうと四苦八苦しています。しかし「辛い」の漢字を見つめてください。「辛」に「一」を一本たすと「幸」の字になるのです。幸せの中には、すでに辛いが含まれています。辛い苦しいことに出会わなければ、私たちは真に何が幸せで、そして何に幸せを見いだしていけば良いのかが見えてこないと云う事なのです。そして、この一本の「一」を持つ事こそが、私たちが大地に足のついた人間に成ると云う事なのです。
ここまでお話すると、感の良い方はすでに気が付いておられるかも知れません。四十九日の間、一週間に一度ずつお経が勤まるのは、私たちをこの「七歩目」に導くために在るのです。初七日の日に、私の中にある「地獄のこころ」を見せていただきました。二七日(ふたなのか)の日には、私の内に潜む「餓鬼のこころ」を発見しました。三七日(みなのか)の日には、「畜生のこころ」を……。と云うように。そして、四十九日目には、「なるほどそうであった」と、七歩目に立ち、亡き人のご縁で気づかせていただきました「ありがとうございます」と手を合わせて納骨する。それが、四十九日間の本当の過ごし方なのです。
私たちは日頃何気なく「生きて」います。「生きて」いる事、それすた自覚しないままに。朝目覚めたときに、「今日も命あって目が覚めた。ありがたい」と感じる人は、ほとんど居ないでしょう。夜寝る時に「今日も一日命があった。ありがたい」と感じる人も、ほとんどいないでしょう。だからこそ、亡き人は、我が姿を見て「生きている」と云う事を実感してくれと語りかけてくれています。そればかりか、亡き人は私たちの日々の「生き方」をも指し示してくれているのです。
四十九日間を俗に「精進」とも云います。生臭さ物を食べてはいけないとか、派手な事をしてはいけないとか色々な事を云います。たしかにソレもあるでしょう。しかし「精進」とは「鍛えよ」と云う事なのです。我が「こころ」を鍛えよと。鍛えるためには、自分自身を知らねばなりません。四十九日かけて「自身を知れ」そういう大きな宿題を、私たちは亡き人から出されているのです。そして、答えが出ないまでも、答えを出そうと悩む事。その事こそが四十九日の意味であり意義なのです。
ご縁有る方の通夜・葬儀に出会わせていただくたびに、私たちは繰り返し「大地に足のついた生き方」について思いをめぐらす。その事こそ、亡き人を真に訪(とむら)う事になってゆくと云う事を、私たちは忘れてはいけないのです。