近ごろ、ちまたは健康ブームである。新聞、雑誌、テレビと情報があふれている。
某テレビ局で、お昼に放送している主婦に人気の番組を見たりすると、「おっ!これはいいかもしれない」と思うのは皆同じらしく、紹介された食品はその日のうちに品切れとなることもあると聞く。信じられないような話である。
我が家にもひとり、しっかりハマってしまっている人がいる。彼女が食事を作っているだけに、ある意味恐いものがある。食後のお茶などはよい例で、毎日日替わりである。おいしく飲めるときはよいが、「なにっ?これ?」と思う程のが出てくると、いささか聞くことにしている。いったい何を飲まされていることやら。本当に身体によいのか、はなはだ疑問だ?こんな風に情報に振り回されているのは我が家だけではあるまい。
しかし、「健康ブーム」イコール「みんな長生き」ともいかない(平均寿命は世界一らしいが)。現実には、いわゆる働きざかりとされる人たちが、突然亡くなっているということを身近で体験している人も少なくないだろう。新聞のお悔やみ欄を見ても三十〜五十代という、年令的にはまだまだこれからといわれる人たちも多く見られる。先日も妻の友人が四十三歳という年令で亡くなっている。
自分に近しい人、仲の良い人、親族ならなおさらだが、私たちはそういう人が亡くなって、はじめて「死」という現実を見つめなおす。
亡くなった人を「仏さん」というが、何も死んだ人だけを指すのではない。仏とは、私たちを正しき道に導く人なり、ものなり、出来事をも指す。いうなれば、真実を知らせてくれる師のようなものである。
ならば、お通夜の席で、お棺に横たわるその人こそ真実を知らせてくれる「仏」である。「人間は死ななければならない」という真実を知らせてくれている。
こういうと、たいていは「何言うとる。そんなことはご坊さんに言われんでも、小学生でも知っとる」、そう言うのだが、はたして本当に「知っとる」のだろうか?私たちは日々の生活の中で「私の乗っている飛行機は落ちない」、「私の乗っているバスは事故に合わない」、「私の歩いている歩道に車は飛び込んでこない」、そう思いこんで、できるだけ「死」を遠ざけ、忘れ、考えないように生きている。現実は、いつ訪れてもしかたないにも関わらず。
だからこそ、お棺の中に横たわるその人は、私たちを導く「仏」となって、「忘れな!私を見て死を見つめよ、そして今一度、自分の生、一生というものを深く考えよ」と語りかけてくれているのだ。
お通夜のお悔やみとは、悲しみの中に「真実を知らせていただきました。ありがとう」と手を合わせること。そういう場でもある。