『かならず』と誓い、『いずれまた』と締めくくれるなら…。それほどの愛情や友情で結ばれているなら…。そして、会いたいと云う強い思いがあるのなら…。大切な人(人だけじゃなくワン子やニャン子も)の死は悲しみだけではなく、残された私達の生き方を変えていきます。
子供が先に亡くなったのなら、その子に必ず会わなければならないのなら、会ったときに『お母さん、お父さん。僕が死んで悲しいのはわかるけど、その後の人生をなんてだらしなく生きてきたんですか!』と叱られぬように、僕の死があなたたちを、前にもまして人に優しい両親にしたんですねと喜ばれる私になって会わねばならない。
親が亡くなったのなら、『頼りないと思っていたお前だったが、どうしてどうして…お前なりに一生懸命生きてきたんだな』と頭を撫でられるような私になって会わなければならない。
『倶会一処』と云う教えは、悲しみの中に残された私達を支えてくれる大切な教えだと思う。残された私達はどんなに辛く悲しくても、唇を噛んで、歯を食い縛って、自分のいのち終わるその日まで生きていかなければならない。その生き方を、生と死を分かつのではなく、生と死が共にあると云う、いや死が生をより高みに導くと云う教えだと思う。
また会える世界などあるわけがない!科学的に説明出来ない世界などばからしい!そんな世界でまた会うなんてアホらしい!確かにそうかもしれない。目に見えない、科学的説明のつかないものは無いとするのが当たり前のことかもしれない。でも、それなら人は愛する者となぜもう一度会いたいと切に願うのだろう。なぜ、親や祖父母の言った躾や助言、小言を今も耳元で聞くことができるのだろ。それは今もなを深い絆で結ばれているからに違いない。
目に見えない、科学的説明が出来ないものは無い!とするなら、親子の絆・夫婦の絆・友情・愛情・優しさ・思いやり…それらは目に見えますか?色がありますか?匂いがしますか?科学で説明できますか?出来ません。なら…「無い」でしょうか。無いどころか、これらがなければ私達は生きていけません。
実は目に見えないもの、形のないものほど大切なのではないでしょうか。そうなれば『再び会う』世界があるとかないとかは問題じゃなく、私自身がどう感じるか…どう受け止めて生きていくかのか…。それは、私達一人一人の中にあるのです。